2019-04-15 台北旅行 4日目(2) 金瓜石・水湳洞

久しぶりの更新になります。 11年前にこのブログを始めた頃から自分の身の回りのことがいろいろ変わりました。この3か月ほどは特に。 少し気分転換を図りたいのと、今年で結婚30周年を迎えるのでその記念も兼ねて台湾に旅行してきました。

1日目 101・鼎泰豐・臨江街夜市
2日目(1) 象山
2日目(2) 永康街・中正紀念堂・松山文創園區
3日目(1) 龍山寺・ちょっとだけ西門町
3日目(2) 建國假日玉市花市・關渡宮・淡水・士林夜市
4日目(1) 九份
4日目(2) 金瓜石・水湳洞 ←イマココ
5日目(1) 故宮博物院
5日目(2) 欣葉・雙城街・廸化街・サニーヒルズ・信義エリア
6日目 帰路

順不同で、まずは今住んでいる日立市と縁深いと勝手に思い込んでいる金瓜石(Jīnguā shí/きんかせき)と水湳洞(Shuǐ nǎn dòng/すいなんどう)を訪ねたときの話から。

金瓜石と水湳洞は人気観光地九份(Jiǔ fèn/きゅうふん)の隣町で、九份と同様海辺の廃坑の町です。台北旅行を計画したときにガイドブックを観て心惹かれたのは、鉱山の面影があちこちに残っていることでしたが、さらに調べてみると、1933年から1945年にかけて日本鉱業が運営していたことがわかりました。日本鉱業創業の地で海辺の廃坑の町である日立市に住む私に取って、台湾旅行のハイライトとなりました。

朝九份に立ち寄ってからバスで金瓜石に向かったのが11時過ぎ。

九份は1時間くらいでスルーするつもりが趣のある街並みと基隆(Jīlóng/きりゅう)の美しい海岸線に見惚れてついつい2時間過ごしてしまいました。その間おやつタイムを除いて歩いてた訳で、それまで台北市内で歩き回った疲れもあって、すでにへとへと。

バスは曲がりくねった道を猛スピードで駆け抜けて行きました。途中何か所か荒々しい海岸線の美しい景色が見えたのですが、一瞬のできごとでカメラに収めることはできませんでした。そんなこんなであっという間に終点の黄金博物館に到着しました。

乗客の大部分が博物館に向かったのですが、私は行きたい場所があったので、時雨高級中學の脇の方に向かいました。

すると、地元の人に間違えられたのか、同じバスに乗ってたカップルに道を尋ねられました。北京語話せないので英語で助かりました。スマホで写真を見せてくれたのですが、勸濟堂駐車場の先のハイキングコースでした。「勸濟堂」という言葉がとっさに出て来なくて、博物館から大きな像のいるお寺の方にある、と答えました。あとで、勸濟堂から黄金博物館に向かう道でその二人とすれ違ったので、何とか伝わったのかもしれません。

歩道のど真ん中に大木があって、どうすれば良いか案じてたら、歩道が大木を迂回する形になっていました。

振り返ると、九份から来る道沿いにあった墓地が見えました。基隆山からつながる稜線です。日本統治時代には、ここを境に九份側を藤田伝三郎率いる藤田組(現在のDOWAホールディングス)、金瓜石側を田中組(現在の日本製鐵の一部をなす釜石鉱山田中製鉄所創業者の田中長兵衛が創立)が運営していたそうです。日本鉱業の創業者久原房之助は藤田組の出身なのでここでもご縁を感じます。

金瓜石行きのバスは終点の黄金博物館で乗客を降ろすと、そのまま私たちが通った坂道を下って行きます。バスがすれ違うにはやや狭い道ですので、すれ違う場所が悪いとプチ渋滞が発生してました。

15分くらい坂道を下って最初の目的地、瓜山國民小學に到着しました。

こちらは日鉱記念館に展示されていた1933年頃に日鉱が鉱山運営を引き継いだ頃の写真です。この写真の中央部にある尖った山が現在ではなくなっていることがわかります。日本統治時代に鉱山開発が本格化する以前、山の標高は現在よりも80mほど高かったそうです。80mの山をも削ってしまう、人間の力と欲望のすさまじさを感じました。

瓜山國小の校門が閉まっていて中に立ち入ることはできませんでしたが、校舎には1933年頃の写真と同じ5連の細長い窓がありました。もしかしたら、あの頃の校舎がそのまま残っているのかもしれません。

瓜山國小の隣は、バスの駐車場になっていました。ここで運転手さんが休憩してバスを転回させるのですね。勸濟堂に向かう道と階段の遊歩道が分岐しています。私は階段を進んで次の目的地に向かいました。

黄金博物館からの下り坂の長さから嫌な予感がしたのですが、地図で見た感じよりもずっと長い階段でした。

階段の途中で時雨高中が見えました。町の規模に見合わないマンモス校です。日本統治時代に金瓜石尋常高等小學校として創立し、現在は中高一貫の共学校で1600人の生徒さんが通っているそうです。そういえば瑞芳から九份方面のバス停にジャージ姿の高校生の姿が見えました。朝から観光地に何しに行くのか不思議でしたが、ここに通う生徒さんだったのかもしれません。

長い階段を上り切った先が國際終戰和平紀念園區です。第二次世界大戦中、ここに日本軍に捕らわれた連合軍捕虜の収容所があり、多数の捕虜が鉱山で強制労働に駆り出されたそうです。

鉱山における労働は過酷で、大勢の捕虜が倒れ亡くなった方々も大勢いたそうです。

碑に大勢の名前が刻まれています。近寄って見ると、これがただの記号ではなく、一人ひとりの個人の名前であることがわかります。ハリー・ブラウンさん、ジェームス・ブラウンさん、アンドリュー・キャメロンさん、ロバート・キャメロンさん、アレクサンダー・キャンベルさん...一人ひとりが家族を祖国に残して祖国のために第二次世界大戦を戦い、運悪く日本軍に捕まってこの地で強制労働をさせられていた人たちです。名前の数だけ、戦争の重みを実感することができます。いや、戦争を知らない私にはホンの少しでしかないのですが。

この収容所の由来の説明には恐ろしいことが書いてありました。ここにあった収容所から水湳洞の銅抗までトンネルが掘られたそうです。表向きの目的は収容所と採掘現場の往復に伴う捕虜の肉体的負担の軽減です。しかし、実際の目的は、連合軍が台湾に攻め入ってきたときに捕虜虐待の証拠隠滅のため捕虜を埋めてしまうためであった旨の日本軍上層部の文書が実在していて、それがアメリカ国立公文書記録保管所(US National Archives)に保管されているそうです。

このような恐ろしい計画を考えたのは、他ならぬ私の国、日本の人たちです。たぶん、軍を離れれば普通の人たちだったんだと思います。そんな人たちの良識をここまで狂わせてしまう、戦争の恐ろしさを垣間見ることができました。

日本人に取っては黒歴史みたいなものですが、そういう事実と向き合うことができた、貴重な時間になりました。

複雑な気持ちを胸に、國際終戰和平紀念園區を後にしました。


勸濟堂に向かう道の途中、カラフルな階段がありました。祈堂老街彩虹階梯と呼ぶそうです。若い女性が記念撮影に興じてました。映えるスポットとして知る人ぞ知る存在のようです。

國際終戰和平紀念園區を挟んだ長い上り階段もようやく終点が見えてきました。この町のランドマーク勸濟堂です。

本殿の後ろに巨大な関羽の像が鎮座しています。

ゆっくり参拝したいところですが、この先に行きたい場所があって、ついついスルーしてしまいました。

勸濟堂の駐車場の端に展望台があります。黄金博物館のバス停で声をかけられたカップルが探していたハイキングコースもすぐ近くにあります。

駐車場の端の展望台からは、水湳洞と陰陽海が一望にできます。

廃坑付近の地下水に含まれる鉱物成分で海の一部が黄土色に染まっています。晴れていれば周囲の青い水とのコントラストを楽しむことができますが、この日は天気が悪く(この展望台に居たときはちょうど雨が降ってました)、不明瞭なのが残念。

展望台のすぐ近くには金瓜石で採掘した鉱石を水湳洞の製錬所に運ぶためのケーブルカーの跡地がありました。高所恐怖症の私には怖すぎて線路から真下を見下ろす写真は撮れませんでしたが、本当に真下に落ちるようなケーブルカーでした。「金瓜石」と「索道」で検索すると、足がすくむような画像がたくさん見つかると思います。

日立鉱山でも鉱石の運搬にインクラインが使われていたそうです。日鉱記念館の敷地内にも路盤の後があったと思います。

ふと周りを見渡すと周辺は海を見下ろす公園みたいに整備されていました。茶壷山への登山道の入口もありました。

山肌には日立市民おなじみの光景がありました。「むかで煙道」です。

こちらは日立市の大雄院製錬所(現JX金属日立事業所)です。以前は斜面を埋め尽くすように煙道が設置されていましたが、排ガス処理技術の向上もあって、ずいぶんスッキリしました。

日立鉱山では有毒ガスを含んだ排気を「むかで煙道」で神峰山山頂付近まで誘導して拡散させようとしたのがかえって入四間地区の煙害を悪化させる結果となってしまいました。太くて短い煙突で空気を混合して有毒ガスを希釈して拡散する方法も大失敗に終わり「阿呆煙突」と呼ばれる羽目になってしまいました。このような試行錯誤の末、大煙突建設につながりました。しかし、水湳洞では「むかで煙道」だけで何とかなったのでしょう。大煙突みたいなものは作られていないようでした。大雄院と見比べると水湳洞の方が高いところまで煙を誘導するようになっています。煙道が大煙突の役割を果たしたのでしょうか。

何はともあれ日立鉱山における苦労を積み重ねて得た知見が台湾の地で活かされているのに感動しました。

公園にトンネルがありました。勸濟堂の駐車場に抜けることができます。ジブリ映画「千と千尋の神隠し」に出てきた現世と不思議な世界をつなぐトンネルはここがモデルになったと言う人も居ます。

駐車場側の方がより「千と千尋」の世界観が感じられて、本当にモデルになったんじゃないかと感じます。

駐車場から見る金瓜石の街並みが素敵です。

駐車場の入口と反対側に車止めがあってその先に歩行者専用道路がありました。事前に調べて知っていた黄金博物館につながる遊歩道です。町の見どころが上手につながっています。

関羽さんは、書物を読む合間にこの景色を楽しんでおられるのでしょうか。

この遊歩道は、かつての軽便鉄道の軌道敷きを転用したものだそうです。金瓜石鉱山の鉱石を先ほどのケーブルカーの駅まで運んだのでしょうか。軌道は更に隣町の九份を経て(九份にも「軽便路」という道があります)さらに麓の瑞芳(Ruì fāng/ずいほう)までつながっていたそうです。高低差の大きな瑞芳と九份の間をどうやってよじ登ったのか気になります。

さきほど訪れた瓜山國小が見えます。

やがて黄金館とその奥の山肌に金瓜石神社(別名黄金神社)の鳥居が見えてきました。

左側の草むらからハブとか出てきたら嫌だな、と思ったら、ホントに居るんですね。気を付けます。

黄金館に着きました。このあと十分(Shífēn/じゅうふん)に行くつもりだったので、中には入りませんでしたが、何億円もする金塊にさわれるそうです。

送風機が何台か展示されてました。日鉱の電気機械なら日立マークが付いてるかなと思ったら付いてませんでした。田中組の頃の機械でしょうか。

軽便鉄道とトロッコもあって、鉱山ムード満点です。撤去された線路から集めた枕木を遊歩道に敷き詰めたのも良いですね。

中には入りませんでしたが、実際に坑内を見学することができます。日立鉱山と同様「本山(もとやま)」というのも親近感があります。

小腹が空いたので、豆花(Dòuhuā)をいただきました。おぼろ豆腐をかき氷の上に載せてさらにタピオカとぐずぐずに煮たピーナッツをトッピングして生姜味の甘いシロップをかけたスイーツです。お客さん少なくて申し訳ないくらい美味しかったです。お勧めです。

小腹を満たしたところで、金瓜石神社の跡地まで行ってみました。

神社の参道から見る茶壷山が最も茶壷っぽく見えます。

途中から古い石段に変わります。ここまでもかなり険しかったのが、さらに険しくなりました。

鳥居を二つくぐってようやく神社跡にたどり着きました。普通に子供連れの家族とか来てたんで、必ずしも難易度が高いわけではありませんが、ふだん運動が足りない者には厳しい上りでした。

社殿は柱だけが残ってました。

在りし日の社殿の姿はwikipediaに掲載されています。「山神社」として、お祭りの日はさぞかしにぎわったのでしょうね。

ちなみに日立鉱山の山神社は非公開です。裏から塀越しに見るとこんな感じです。金瓜石神社ほどではありませんが、日鉱記念館からかなり上ったところにあります。メンテナンスはしっかり行われているようで、今でもJX金属グループの安全を見守っているんだと思います。

奥社の遺構も残ってます。お賽銭には日本円も含まれてました。

ここから見る景色は絶品です。ハワイのカウアイ島のKōkeʻe State Parkから見下ろすKalalau Valleyみたいな雄大さがあります。

参道を降りて、散策を続けます。

トロッコ道をずっとずっと歩いていたいのですが、毒蛇の警告表示がこれ以上先は行けないよと伝えてくれているようなので、黄金博物館バス停の方向に降りることにしました。

階段の両側にはレンガの塀で囲われた鉱山の社宅の跡地が並んでました。門構えから察するに現地の作業員ではなく日本から来た技術者や鉱山運営にかかわる幹部社員の家のようでした。ここに大勢の方の暮らしがあって、私の親の世代にあたる子供たちが遊んでいた光景が思い浮かびます。

台湾電力の施設だそうです。周辺の景観と調和していました。

四連棟が見えてきました。
黃金博物園區の入口に近いビジターセンターの前に出ました。抗夫さんのお人形が出迎えてくれます。黄金博物館は特定の建物ではなく、先ほど通りがかった黄金館や本山五抗などを含めた鉱山が華やかなりし頃の名残を保存したエリア全体を黃金博物園區として指定して、観光客がそこをめぐりながら楽しめるようになっています。面白い試みだと思います。

四連棟日式宿舎です。ここも日鉱社員の社宅だったんじゃないかと思います。私が日立市に越してきた36年前、町のあちこちにこんな感じの社宅が多数残っていました。日立市も史跡として少し残したらよかったかもしれません。

日鉱が金瓜石鉱山の運営に乗り出したときの所長で、後に日鉱の社長も務めた三毛菊次郎氏の邸宅です。母屋に4部屋、離れに2部屋と駐在員の仮住まいとしてはなかなかの豪邸です。残念ながら台風で倒壊してしまったのですが、貴重な史跡ということで修復が進められています。ありがたいことです。

警察署も当時の建物を模して造られています。

日本統治時代に虐待されていたのは連合軍捕虜だけではなかったことをこの碑が伝えています。1942年に金瓜石在住の台湾人約100名が当時連合軍側にあった中国に内通した疑いで日本の特高警察に捕らわれました、うち33名が獄中死しています。王さん、游さん、林さん...と実際に亡くなった方の名前が刻まれています。改めて戦争の怖さを感じます。漢文が苦手で正確な意味は把握できませんが、碑文の末尾に恨むことはせず平和を願う、みたいなことが書いてあります。この旅で台湾の人たちの情の厚さを実感することが多かったのですが、当地の人々の情け深さが伝わってきます。

台湾は猫が多いですね。特にこの町ではあちこちで見かけました。

遅いお昼ご飯は礦工食堂で鑛工便當です。風呂敷包みのアルマイト容器入りが290TWD、紙容器入りが180TWDでした。帰りの荷物を増やしたくないので紙容器の方にしました。15:00台の変な時間帯でしたが、ぱらぱらと利用客が訪れていました。台湾のお弁当に抱いていたイメージ通りのお弁当でした。お肉の下に敷かれていた高菜が良いアクセントになってました。食べなきゃ損、というほどの味ではありませんが、お腹ぺこぺこで通りがかったなら、間違いありません。

1922年(大正11年)、田中組が鉱山を運営していた頃に当時の皇太子殿下(のちの昭和天皇)が訪台する話が持ち上がり、殿下をお迎えするために建てた「太子賓館」です。最高の材料を使って釘を使わずに建てたそうです。訪台は都合によりキャンセルされましたが、別途他の皇族がご利用になったそうです。あちこち傷んでましたが、原形をしっかり維持していました。



日鉱の社宅が何軒か残ってました。

煉金樓という名前からここで金鉱石から金を取り出していたのかなと思ったら、宿泊設備として使われていたそうです。



ようやく黄金博物館バス停に戻ってきました。ガイドブックに見学時間3時間程度と書いてあったので11時頃に金瓜石に入って14時には次へ向かおうと思ってたのが、16時になってしまいました。黃金博物園區の施設の中をほとんどスルーしてきたにもかかわらず、です。同じ海沿いの廃坑の町、日鉱の町に住む者だからこそだと思いますが、見どころ満載でとても半日で観つくすことはできませんでした。

金瓜石から次に乗車したのは891番のマイクロバス「金水浪漫號」です。このバスは、黄金博物館を出発して水湳洞に下りてまた黄金博物館に戻ってくる巡回バスです。平日は毎時00分、週末と祝日は毎時00分/30分に黄金博物館を出ます。運賃は15TWDです。

計画では長仁社區で下車して水湳洞エリアをゆっくり回るつもりでしたが、金瓜石神社往復で脚が売り切れてしまったので、そのままバスに乗り続け、運転手さんがフォトストップを設定してくれたらありがたく写真を撮らせていただく、ということにしました。


台湾のバスらしく、つづら折りの急カーブを猛スピードでかけぬけていきました。黃金瀑布と長仁社區は華麗にスルー。バスは情け容赦なく突っ走るので、「車窓観光」なんてありません。長仁社區ではピンボケ写真が1枚撮れただけでした。また来なくちゃ。

「天空の城ラピュタ」みたいだ、という表現をする人もいるようです。
水金九エリアはジブリと結びつけたくなる風景が多いです。

このままフォトストップなしで黄金博物館に戻っちゃうのかなと思ったら、水湳洞停車場で他のお客さんが英語と北京語の通訳を引き受けてくれて、ようやくのフォトストップ。運転手さんもタバコ休憩。その間に十三層遺址と呼ばれる水湳洞の製錬所の跡地を眺めることができました。私が日立市に越してきた頃はまだ閉山後間もなくて本山の一本杉付近でこんな景色が見られたんですが、今ではすっかり更地に戻されてしまいました。こういう形で残されているのは貴重です。

道路を渡って黃金瀑布下流の川を見ると黃金瀑布と同様明るい茶色です。

こちらは日立市の大雄院製錬所近くの宮田川です。川底の色が似ているので、ミネラルの成分に類似性があるのかもしれません。

水湳洞停車場を出たバスは、さきほど通訳してくれた同乗の女性二人組のリクエストでほんの2~3分先の水湳洞旅遊服務中心に停車。女性二人組はここで降車しましたが、運転手さんがまたタバコに火を点けたのでここでもフォトストップを楽しませてもらいました。陰陽海を間近に見下ろすことができます。曇天で陰陽が不明瞭なのがなんとも残念です。

ここから見る十三層遺址もなかなか勇壮です。

煙道もよく見えます。アングルによって茶壷に見えたり見えなかったりする茶壷山はこのアングルからでは良い感じに茶壷に見えます。

往路と同様復路も金水浪漫號はかっ飛ばします。途中から往路とは異なるルートで坂を登り、あっという間に黄金博物館に戻ったのは17時近くでした。これからがお隣町九份のベストタイムですが、一日中歩き回って疲れた身には人混みは無理と判断し、そのまま台北に帰ることにしました。ほどなく1062番のバスが表れたので、迷わず「台北」と告げて乗り込みました。この旅で乗った乗り物はできるだけ写真に残そうと思ってたのですが、このときはカメラを出す元気もなくなってました。

予想どおり途中で寝落ちしましたが、高速に乗るまでと高速から降りた後の一般道走行区間が長いです。お金に余裕のある人はタクシー乗った方が良いと思います。1062番バス終点の捷運忠孝復興站からホテルまで歩いても15分くらいですが、脚が売り切れてるので、一駅だけMRT文湖線を利用しました。広告が都会を感じさせます。

この日の晩御飯は、ホテル近くを10分ほどさまよってから、こちらのお店にしました。もちもちの水餃がおいしかったです。

もうこれは、廃坑の町に住んでいる私だけの価値観で言ってるので大きく割り引いていただきたいのですが、金瓜石と水湳洞、とても面白い場所でした。日立鉱山から始まった日本鉱業の人たちがここで暮らして鉱山を開発した軌跡をそこかしこで垣間見ることができましたし、戦争がもたらす恐ろしさも実感することができました。とても多くの知見を授かった一日でした。

日立市にも訪れるたびに鉱山と町について知見を授けてくれる日鉱記念館がありますし、地元企業が積み上げてきた産業遺産的なものがたくさんあります。稼働中の事業所でそれらを観光客に見てもらうには困難が伴うこともわかります。でも、海と山という自然と地元の産業を上手に組み合わせると面白いツーリストアトラクションができるのかな、と思いました。爆発的に大勢が来るのは無理としても、コンスタントに人が訪れる場所になれば良いなと思います。

でも、金瓜石の黃金博物園區の施設をほとんど見てませんし、水湳洞はほとんど通過しただけです。こりゃあまた来るしかありませんね。できればこのエリアの民宿を利用して、好天の日にこのエリアをじっくり歩き回ってみたいです。それまでにもう少し脚を鍛えないといけませんが。

今回の台湾旅行、自分用の記録としてこのブログに残したかったのですが、旅のハイライトとは言えこの一本を書くのにものすごく時間がかかってしまいました。この旅行記は続かないかもしれません。5日目に続きます。

1日目 101・鼎泰豐・臨江街夜市
2日目(1) 象山
2日目(2) 永康街・中正紀念堂・松山文創園區
3日目(1) 龍山寺・ちょっとだけ西門町
3日目(2) 建國假日玉市花市・關渡宮・淡水・士林夜市
4日目(1) 九份
4日目(2) 金瓜石・水湳洞 ←イマココ
5日目(1) 故宮博物院
5日目(2) 欣葉・雙城街・廸化街・サニーヒルズ・信義エリア
6日目 帰路

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