日立の産業の歴史を探訪する (3)
大それたタイトルの割には産業の歴史について殆ど触れてませんでした。
ある意味これからが核心かもしれませんが、Perfumeの代々木公演が間近に迫ってきたので駆け足で完結させます。
とりあえず、日鉱記念館まで歩いてきました。この一帯に日立銅山がありました。
日本鉱業(現 新日鉱ホールディングス)と日立製作所、この二社がこの町から生まれました。
日立銅山は、古くは16世紀戦国時代に佐竹の頃から開発されていたそうですが、本格的には19世紀に本格的な開発が始まり、更に20世紀初頭に久原房之助という人物が買い取って日本で4番目に大規模な銅山として開発したのが日本鉱業の始まりとされています。
この日鉱記念館では、1981年に閉山した日立銅山の跡地に残る設備や日本鉱業の歴史、久原房之助という人物に関する資料が展示されています。
びっくりしたのは、この下に深さ950m、総延長400kmの穴が掘られていたということです。標高350mくらいの場所ですから、最深部は海面下600mくらいあったことになります。何だかよくわからない写真ですが、トンネルが縦横に掘られていた様子をアクリルの模型で示したものです。
屋外には当時の設備の一部が展示されています。
これが竪坑です。ここからエレベーターみたいなゴンドラに乗って人や機材が上り下りして、鉱石が引き上げられた訳です。
こちらが栄斜坑です。この先途中で折れ曲がりながらも地下950mまで潜ります。すごい。
ここから海側は、県道の両側の僅かな土地に沿って鉱山の従業員が住む団地が建ってました。私が26年前にこの町に来た頃は、まだ取り壊しが始まっておらず、山中に忽然と巨大なゴーストタウンが現れたのにびっくりした記憶があります。今は、小学校の跡(赤沢山荘)とわずかな民家が残るだけになってしまいました。
恐るべきことに、この建物に入っている食堂は営業していました。
県道から水戸側(南側を意味する日立のローカル言語)に本山キャンプ場に向かう道が分岐しています。日鉱記念館で見た資料ではこの方向に巨大な社宅群があったはずです。キャンプ場もその跡にあったと考えられます。ちょっと寄り道してみました。
昼なお暗い道です。車通りもなくて、少々不気味だったりします。
途中なかなか立派な滝もありました。
結局1kmくらいの道のりを一台の車ともすれ違わないままキャンプ場に入りました。
なるほど、少し開けた感じです。
徒歩で入ってくる奴なんて滅多にいないのでしょう。不審な歩行者に対してキャンプ場の職員さんが何をしに来たのか尋ねてきました。
「ここは日鉱の社宅跡ですか?」と質問したら、以前日鉱と縁のある方だったらしく、色々と詳しくこの地の社宅について教えてくださいました。この土地に長屋みたいに社宅が並んで建っていて、500世帯くらいが暮らしていたそうです。警察の駐在所や「供給」と呼ばれる日用品の販売所もあって、それはにぎやかな場所だったそうです。
キャンプ場からは高鈴山も間近に見えます。
同じ道を戻るのもおもしろくないので、職員さんに教えてもらった当時の小学生の通学路をたどってみました。途中、展望スポットがあって、大雄院の精錬所の大煙突(の残り)がよく見えました。
小学校の体育館が見えてきました。結構な高度差があります。ここの小学生はみんな脚が丈夫になったことでしょう。
この道はあまり利用されていないらしく草ぼうぼうになってきました。草むらを歩くのが苦手な私は真夏には通れそうにありません。
というわけで先ほど立ち寄った小学校跡に戻ってきました。
道草はこれくらいにして市街地に向けて県道を下りていきます。
途中で、小さな神社を見つけました。こういったスポットに気軽に立ち寄れるのも徒歩ならではです。
何らかの設備のために山林を伐採した跡があります。何があったのかしら。
坐禅石というそうです。
車だとものの5分ですし、自転車でも下り坂ならそれくらいで移動できる距離を赤沢山荘から1時間近く歩いたでしょうか。結構長いと感じましたが、ようやく日鉱金属の日立事業所、通称大雄院精錬所です。ここからの排煙がもたらした公害との戦いが、新田次郎の「ある町の高い煙突」のテーマでした。住民と鉱山会社との粘り強い交渉の末、当時東洋一と言われた高さ155.7mの巨大な煙突が築かれ、これにより排気ガスを強い気流に乗せて拡散させることで公害を解消したそうです。
以前は町の海側(東側を意味する日立のローカル言語)ならどこからでも見えた大煙突ですが、1993年に倒壊して54mに縮まってしまいました。今では排ガスの処理技術も進歩しているので、大煙突に頼らなくても公害を最小限に抑えることができるそうで、大煙突の再建はなりませんでした。
大雄院精錬所から道を挟んだ反対側に記念碑があります。ここが日立製作所の創業の地です。日立銅山で使用される数多くの電気品の修理工場から始まって、独自に製造もするようになり、やがて独立したのが日立製作所です。
大雄院まで行けば市街地はもうすぐと考えて歩いていたのですが、大雄院から先結構距離あります。
しばらく道沿いに日鉱関連の工場が続きます。
常磐道です。こんな高いところに橋かけたら高くなるはずです。
共楽館というかつての日立銅山が従業員の福利厚生のために作った劇場です。東京の歌舞伎の公演とかもあって、賑わったそうです。今では市の武道館(BUDOUKaaaaaaaaaaN!!!!じゃなくて)として使われています。
日立製作所はその業容が拡大するにつれ、独自に工場を立てました。その第一号がこの日立事業所 山手工場です。
ということで、病院から延々歩いているうちに夕方近くになりました。なかなかに楽しい散歩でした。
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本日の体重=67.4kg
ある意味これからが核心かもしれませんが、Perfumeの代々木公演が間近に迫ってきたので駆け足で完結させます。
とりあえず、日鉱記念館まで歩いてきました。この一帯に日立銅山がありました。
日本鉱業(現 新日鉱ホールディングス)と日立製作所、この二社がこの町から生まれました。
日立銅山は、古くは16世紀戦国時代に佐竹の頃から開発されていたそうですが、本格的には19世紀に本格的な開発が始まり、更に20世紀初頭に久原房之助という人物が買い取って日本で4番目に大規模な銅山として開発したのが日本鉱業の始まりとされています。
この日鉱記念館では、1981年に閉山した日立銅山の跡地に残る設備や日本鉱業の歴史、久原房之助という人物に関する資料が展示されています。
びっくりしたのは、この下に深さ950m、総延長400kmの穴が掘られていたということです。標高350mくらいの場所ですから、最深部は海面下600mくらいあったことになります。何だかよくわからない写真ですが、トンネルが縦横に掘られていた様子をアクリルの模型で示したものです。
屋外には当時の設備の一部が展示されています。
これが竪坑です。ここからエレベーターみたいなゴンドラに乗って人や機材が上り下りして、鉱石が引き上げられた訳です。
こちらが栄斜坑です。この先途中で折れ曲がりながらも地下950mまで潜ります。すごい。
ここから海側は、県道の両側の僅かな土地に沿って鉱山の従業員が住む団地が建ってました。私が26年前にこの町に来た頃は、まだ取り壊しが始まっておらず、山中に忽然と巨大なゴーストタウンが現れたのにびっくりした記憶があります。今は、小学校の跡(赤沢山荘)とわずかな民家が残るだけになってしまいました。
恐るべきことに、この建物に入っている食堂は営業していました。
県道から水戸側(南側を意味する日立のローカル言語)に本山キャンプ場に向かう道が分岐しています。日鉱記念館で見た資料ではこの方向に巨大な社宅群があったはずです。キャンプ場もその跡にあったと考えられます。ちょっと寄り道してみました。
昼なお暗い道です。車通りもなくて、少々不気味だったりします。
途中なかなか立派な滝もありました。
結局1kmくらいの道のりを一台の車ともすれ違わないままキャンプ場に入りました。
なるほど、少し開けた感じです。
徒歩で入ってくる奴なんて滅多にいないのでしょう。不審な歩行者に対してキャンプ場の職員さんが何をしに来たのか尋ねてきました。
「ここは日鉱の社宅跡ですか?」と質問したら、以前日鉱と縁のある方だったらしく、色々と詳しくこの地の社宅について教えてくださいました。この土地に長屋みたいに社宅が並んで建っていて、500世帯くらいが暮らしていたそうです。警察の駐在所や「供給」と呼ばれる日用品の販売所もあって、それはにぎやかな場所だったそうです。
キャンプ場からは高鈴山も間近に見えます。
同じ道を戻るのもおもしろくないので、職員さんに教えてもらった当時の小学生の通学路をたどってみました。途中、展望スポットがあって、大雄院の精錬所の大煙突(の残り)がよく見えました。
小学校の体育館が見えてきました。結構な高度差があります。ここの小学生はみんな脚が丈夫になったことでしょう。
この道はあまり利用されていないらしく草ぼうぼうになってきました。草むらを歩くのが苦手な私は真夏には通れそうにありません。
というわけで先ほど立ち寄った小学校跡に戻ってきました。
道草はこれくらいにして市街地に向けて県道を下りていきます。
途中で、小さな神社を見つけました。こういったスポットに気軽に立ち寄れるのも徒歩ならではです。
何らかの設備のために山林を伐採した跡があります。何があったのかしら。
坐禅石というそうです。
車だとものの5分ですし、自転車でも下り坂ならそれくらいで移動できる距離を赤沢山荘から1時間近く歩いたでしょうか。結構長いと感じましたが、ようやく日鉱金属の日立事業所、通称大雄院精錬所です。ここからの排煙がもたらした公害との戦いが、新田次郎の「ある町の高い煙突」のテーマでした。住民と鉱山会社との粘り強い交渉の末、当時東洋一と言われた高さ155.7mの巨大な煙突が築かれ、これにより排気ガスを強い気流に乗せて拡散させることで公害を解消したそうです。
以前は町の海側(東側を意味する日立のローカル言語)ならどこからでも見えた大煙突ですが、1993年に倒壊して54mに縮まってしまいました。今では排ガスの処理技術も進歩しているので、大煙突に頼らなくても公害を最小限に抑えることができるそうで、大煙突の再建はなりませんでした。
大雄院精錬所から道を挟んだ反対側に記念碑があります。ここが日立製作所の創業の地です。日立銅山で使用される数多くの電気品の修理工場から始まって、独自に製造もするようになり、やがて独立したのが日立製作所です。
大雄院まで行けば市街地はもうすぐと考えて歩いていたのですが、大雄院から先結構距離あります。
しばらく道沿いに日鉱関連の工場が続きます。
常磐道です。こんな高いところに橋かけたら高くなるはずです。
共楽館というかつての日立銅山が従業員の福利厚生のために作った劇場です。東京の歌舞伎の公演とかもあって、賑わったそうです。今では市の武道館(BUDOUKaaaaaaaaaaN!!!!じゃなくて)として使われています。
日立製作所はその業容が拡大するにつれ、独自に工場を立てました。その第一号がこの日立事業所 山手工場です。
ということで、病院から延々歩いているうちに夕方近くになりました。なかなかに楽しい散歩でした。
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本日の体重=67.4kg
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